LOGINエレベーターが一階へ着くまでの時間が、ひどく長く感じられた。
実際には一分もかかっていなかったはずだ。それでも私は、ダニエルから届いた二通のメッセージを何度も読み返していた。
『十二年前のヴァレンタイン社の横領事件を調べてみろ。お前が知っている話と、本当の話は違う』
そして、もう一通。
『四万八千ドルは返せない。あの金は、お前の父親の件と関係している』
父が亡くなってから十二年。
私は父の事件について自分なりに調べ続けてきたが、ダニエルから父の話を聞いたことは一度もなかった。
それどころか、付き合い始めたころに私が父の過去を話したとき、彼は「昔のことで君まで責められる必要はない」と言ってくれた。横領事件の詳しい内容には踏み込まず、私が話したくないなら無理に聞かないとも言った。
あのときは、それを思いやりだと思った。
今になれば、違って見える。
聞かなかったのではなく、すでに何か知っていた可能性がある。
「エレナ」
マーガレットに呼ばれ、私はようやく顔を上げた。
エレベーターの扉はすでに開いている。
出勤する社員たちの流れを邪魔していたことに気づき、慌てて外へ出た。
「すみません」
「私に謝る前に、もう一度そのメッセージを見せてください」
ロビーの端へ移動すると、私は携帯電話を渡した。
マーガレットは画面を指で拡大しながら、二通を続けて読む。彼女の眉間に皺が寄った。
「四万八千ドルがあなたのお父さんの件と関係している、ですか。これは相当おかしいですね」
「私もそう思います」
「そもそもダニエルは、お父さんの事件についてどこまで知っていたんです?」
「私から話したのは、父が十二年前に勤務先の関連する横領事件で疑われたことと、その後事故で亡くなったことくらいです。会社名は隠していませんでしたから、ヴァレンタイン・グループだということも知っていました。でも、詳しく調べたとか、関係者を知っているとか、そういう話は一度もありませんでした」
マーガレットは私へ携帯電話を返さず、そのまま低い声で尋ねた。
「あなた、今朝エイドリアン・ヴァレンタインに、お父さんの件をどこまで話しました?」
「家族が企業不正の事件に巻き込まれたことと、その件にヴァレンタイン・グループが関係していることが分かる程度です。父の名前は言っていません」
「それなら、まだ言わないでください」
意外だった。
マーガレットなら、契約相手に重要な事情を隠すことを嫌うと思っていた。
「言うべきじゃないんですか?」
「いずれは言う必要があるでしょう。でも順番があります。今はダニエルが何を知っているのかが不明ですし、あなたのお父さんの件と四万八千ドルがどうつながるのかも分からない。この状態でヴァレンタイン側へすべて渡すのは、情報の主導権を自分から手放すようなものです」
マーガレットはそこで少し言葉を切り、私をじっと見た。
「ただし、一つだけ約束してください。お父さんの真相を知りたいからといって、自分だけでダニエルのところへ乗り込まないこと」
私は返事をしなかった。
「その顔は何です?」
「別に」
「あなたが何か隠すときの顔です」
「私にそんな分かりやすい癖があるとは思えませんけど」
「六年付き合っていれば分かります。弁護士を甘く見ないでください」
私は携帯電話を受け取った。
ちょうどその瞬間、画面が震えた。
ダニエルから新しいメッセージだった。
『十二時半。グランド通りのカフェ。来るなら全部話す。来ないなら、もう連絡しない』
思わずマーガレットと顔を見合わせた。
彼女は私の表情を見るだけで察したらしい。
「見せてください」
「断っても?」
「私があなたの弁護士で、友人でもあることを思い出してください」
仕方なく画面を見せる。
マーガレットは読み終えると、案の定嫌そうな顔をした。
「行くんでしょうね」
「全部話すと言っています」
「浮気が発覚して一日も経っていない元婚約者と二人きりで?」
「人の多いカフェです」
「そういう問題だけじゃありません」
「でも、父のことを知っているなら聞くしかないでしょう」
言いながら、私は自分でも声が硬くなったのが分かった。
父の話になると、いつもそうだ。
普段なら一歩引いて考えられることも、あの事件だけは別だった。
マーガレットもそれを知っている。
だから強く止めるのではなく、しばらく考えた末に言った。
「分かりました。ただし私も近くにいます」
「同席してもらったら、ダニエルが話さなくなるかもしれません」
「だから同じテーブルには座りません。別席にいます。何かあればすぐ入る。それなら?」
私は少し迷い、頷いた。
「お願いします」
「それと、会話は録音します」
「州法上、当事者の一方が同意すれば録音できますね」
「仕事の顔に戻るのが早いですね」
「そのほうが楽なんです」
マーガレットは何か言いかけたが、結局やめた。
私が仕事に逃げる癖があることも、彼女は知っている。
けれど今は、その癖に助けられていた。
父のこと。
ダニエルの裏切り。
エイドリアンとの契約結婚。
全部を感情だけで処理しようとすれば、頭がおかしくなりそうだった。
だから一つずつ、事実を並べるしかない。
それが私のやり方だった。
午後十二時二十七分。
約束のカフェへ入ると、ダニエルはすでに奥の席に座っていた。
昨日と同じ男なのに、一晩でずいぶん違って見えた。
髪は整えているし、シャツにも皺はない。ただ目の下には疲れが残り、テーブルの上に置いたコーヒーにはほとんど口をつけていないようだった。
私を見ると立ち上がった。
「エレナ」
「座って」
挨拶を省くと、彼は少し傷ついたような顔をした。
それを見ても、もう以前のように罪悪感は湧かなかった。
昨日までは、彼の表情の変化一つで自分が悪かったのではないかと考えていた。
今は違う。
私たちの関係が壊れたことと、父の事件は分けて考える。
同じテーブルについた私は、バッグを膝の上に置いた。
少し離れた席にはマーガレットがいる。新聞を広げているが、あれで聞き耳を立てているつもりなのだろう。
「時間はあまりないから、先に聞きます」
私が言うと、ダニエルは口元を引き結んだ。
「そういうところ、変わらないな」
「懐かしむために来たんじゃないわ。四万八千ドルが父の件と関係しているって、どういう意味?」
いきなり核心へ入ると、ダニエルは周囲を気にするように一度だけ店内を見回した。
その反応だけで警戒心が増した。
「声を少し落としてくれ」
「ここへ呼んだのはあなたでしょう」
「分かってる。でも、この話は簡単じゃない」
「簡単じゃなくても話して。昨日から私は、簡単じゃないことばかり経験しているの」
皮肉が混じった。
ダニエルにも伝わったらしい。
彼は苦い表情をした。
「浮気のことは、本当に悪かった」
「その話はいらない」
「俺には必要なんだ」
「私には必要ない。少なくとも今は」
言い切ると、ダニエルは黙った。
以前なら、このまま気まずくなれば私が何か言って場を繕っていたと思う。
けれど今日はしなかった。
やがて彼のほうが折れた。
「……君のお父さんの事件を、俺が知っていたのは本当だ」
胸の奥が重くなる。
予想していた言葉なのに、実際に聞くと痛みがあった。
「いつから?」
「君と付き合う前から」
指先が冷えた。
「どうして?」
ダニエルはテーブルの端を指でなぞり、なかなか私を見ようとしなかった。
「俺の父親が、当時ヴァレンタイン・グループと取引していた会社に勤めていた。会計システムの外部保守を請け負っていたんだ」
「あなたのお父さんが?」
初耳だった。
ダニエルの父親は、私たちが知り合ったころにはすでに亡くなっていた。
心臓発作だったと聞いている。
職歴について詳しく尋ねたことはない。
「父は事件そのものの当事者じゃない。でも横領が発覚したころ、何度か夜中に呼び出されていたらしい。俺がまだ学生だったころ、父の書斎で資料を見つけたことがある」
「どんな資料?」
「口座番号と会社名、それから送金日時が書かれた一覧だ」
身体の内側が急に熱くなった。
「今もあるの?」
「全部じゃない」
「どういう意味?」
「父が死んだあと、家のものを整理した。母は事件のことなんて知らなかったし、俺も当時は意味が分からなかった。でも一部だけ、捨てずに取っておいた」
「なぜ?」
「父が妙なことを言っていたからだ」
私は息を詰める。
「何て?」
ダニエルはしばらく迷ったあと、低い声で言った。
「『横領した男は、金を盗んでいない』」
周囲の音が一瞬遠ざかった気がした。
コーヒーマシンの蒸気の音も、食器の触れ合う音も、人々の話し声も、全部が薄くなる。
父が言っていたことと同じだった。
俺は盗んでいない。
十二年前、何度も聞いた。
それを、ダニエルの父親も口にしていた。
「それ、本当にあなたのお父さんが?」
「ああ」
「どうして今まで黙っていたの?」
声が震えた。
怒りを抑えようとしたが、完全には無理だった。
ダニエルはようやく私を見た。
「最初は君のお父さんと、その事件がつながっているなんて知らなかった。付き合ってしばらくして、君から話を聞いて気づいた。でも、言えなかった」
「どうして」
「怖かったんだよ」
「何が?」
「ヴァレンタインだ」
彼の声が強くなった。
「君には簡単に言えるかもしれない。真相を調べる、父親の名誉を取り戻すって。でも相手は世界規模の企業だ。十二年前だって、事件が出た途端に関係していた中小企業がいくつも契約を切られて、担当者が辞めて、資料も消えた。父はそのあとずっと『余計なことは言うな』って怯えてた」
「それなら、なおさら私に話すべきだったでしょう」
「話したら君は絶対に調べると思った」
「だから三年間隠したの?」
「君を守りたかった」
その言葉で、怒りが一段深くなった。
昨日なら傷ついたかもしれない。
今は、腹が立った。
「私を守るために、私から父の真相を知る機会を奪ったの?」
「そんな言い方をするなよ」
「じゃあ、どう言えばいい? あなたは私より事情を知っていた。それなのに、私には何も言わず、私が父の事件について調べているのをずっと見ていたんでしょう?」
「俺だって全部知っていたわけじゃない!」
ダニエルも声を抑えきれなくなり、近くの客が一度こちらを見た。
彼はすぐに声量を落とした。
「資料があるだけだった。内容も完全には分からなかった。しかも父が死んだあと、知らない男が一度家に来たんだ。『古い業務資料が残っているなら返してほしい』って。名刺も置かなかった。母は怖がって、そのあと残っていた書類の大半を捨てた」
「いつの話?」
「七年前」
七年前。
私とダニエルが付き合い始めるより前だ。
「それでも一部を残したのね」
「ああ」
「どこに?」
ダニエルは答えなかった。
私は少し身を乗り出した。
「その四万八千ドルと関係あるの?」
彼の顔がこわばる。
図星だった。
「ダニエル」
「資料の一部を預けていた人間がいる」
「誰?」
「父の元同僚だ。去年、向こうから連絡してきた。自分も歳だから、持っているものを整理したいって」
「それで金を要求された?」
「最初は違った。会って話をしただけだ。でも二週間前になって、資料を渡す代わりに五万ドル用意しろと言い出した」
私は言葉を失った。
「それを共同口座から出したの?」
「足りない分は自分で出した」
「どうして私に相談しなかったの?」
「言ったら止めただろ」
「当たり前でしょう!」
抑えていた声が大きくなった。
今度は私が周囲の目を集めた。
私は一度息を整える。
「それは私のお金でもあるのよ。父の件だから使っていいと、なぜあなたが勝手に決めるの?」
「君のためだった」
「またそれ?」
「本当にそうなんだ。結婚する前に全部片づけたかった。資料を受け取って、何もなければ捨てればいい。もし本当に君のお父さんの無実を証明できるものがあれば、結婚祝いみたいに渡せると思った」
あまりにも身勝手で、あまりにもダニエルらしかった。
善意がないわけではない。
むしろ本人は、本当に私を喜ばせたかったのだろう。
だから余計に厄介だった。
人間は悪意だけで相手を傷つけるわけではない。
相手のためだと信じ、自分だけで正しいことを決めたときにも傷つける。
「昨日の女性も、私のためだったと言うつもり?」
そう尋ねると、ダニエルは目を伏せた。
「それは違う」
「そこまで混ぜないだけ、まだましね」
「エレナ……」
「今は資料の話をして」
冷たく聞こえたと思う。
でも、浮気と父の事件を一緒に話せば、私は判断を誤る。
だから分ける。
「五万ドルはもう渡したの?」
「四万八千ドルだけ先に送った」
「なぜ半端な額なの?」
「向こうが指定した口座に送金できる上限と、手元にあった資金の都合だ。残りは資料を受け取るときに現金で払う予定だった」
「いつ?」
「今日の午後三時」
私は時計を見た。
あと二時間ほどしかない。
「場所は?」
「それは言えない」
思わず彼を睨んだ。
「ここまで話して、まだ?」
「君を連れていくつもりはない」
「資料は父に関係しているんでしょう」
「だからだよ」
ダニエルは初めて、怒りではなく怯えを露わにした。
「昨日、君がエイドリアン・ヴァレンタインと一緒にいるのを見た。最初は偶然だと思った。でも今朝、ヴァレンタイン・タワーに入っただろ」
「見ていたの?」
「ホテルの件のあと、話したくて君の家へ行こうとした。でも運転手付きの車が送っていくのを見て、今朝も気になって会社の近くまで行った」
嫌な感覚が背中を走った。
「それ、ほとんど尾行よ」
「分かってる。でも心配だったんだ」
「心配なら連絡すればいいでしょう」
「した。君が出なかった」
「だから後をつけていいことにはならない」
ダニエルは反論できなかった。
それでも彼は続ける。
「エレナ、あの男に父親の件を話したのか?」
「それはあなたに関係ない」
「ある。もし資料が本物なら、ヴァレンタイン家の人間に見せるのは危険だ」
「エイドリアンが事件に関わっている証拠でもあるの?」
「そこまでは知らない。十二年前、彼はまだ今ほど会社の中心にいなかったはずだ。でもヴァレンタイン一族だ」
「名字だけで犯人扱いするの?」
「君こそ、名字だけで信用してるのか?」
その言葉には返せなかった。
私はエイドリアンを信用しているわけではない。
むしろ警戒している。
それでも、父の件を調べるために彼との結婚を考えている。
ダニエルには話していないが、構図だけを見れば危険なのは事実だった。
「今日、資料を受け取るのね」
「その予定だ」
「私も行く」
「駄目だ」
「では、その人の名前を教えて」
「それも駄目だ」
「だったら警察か弁護士を通して」
「向こうは警察を入れたら何も渡さないと言ってる」
「それ、自分でおかしいと思わない?」
「思ってるよ!」
ダニエルは低く言い返した。
「だから君を巻き込みたくなかった。でも金はもう送った。ここでやめたら全部無駄になる」
「お金が惜しいから危険な相手に会うの?」
「違う。君のお父さんの資料があるかもしれないからだ」
私は唇を結んだ。
怒っているのに、完全には否定できなかった。
もし立場が逆なら。
父の無実を証明できる資料があると言われたら。
私も行こうとするかもしれない。
そこが、一番腹立たしかった。
ダニエルは卑怯なだけではない。
善意だけでもない。
裏切った男であり、勝手に私の金を使った男であり、それでも父のことを調べようとしていた男でもある。
一つの言葉で切り分けられない。
だから人間は面倒なのだ。
「一つだけ答えて」
私は言った。
「その資料の中に、父の名前があると確認したの?」
ダニエルは少し迷ってから頷いた。
「写真を一枚だけ送られてきた」
「見せて」
「エレナ」
「見せて」
今度は譲らなかった。
彼はしばらくためらったあと、携帯電話を取り出した。
写真フォルダを開き、一枚の画像を表示する。
古い紙を撮影したものだった。
印刷が少し滲み、端には折れた跡がある。
上部には日付。
十二年前。
その下には複数の送金記録。
会社名。
金額。
承認番号。
そして備考欄の一部に、小さく人名が記されていた。
私は画面を指で拡大した。
そこには確かに父の名前があった。
けれど、それだけではなかった。
父の名前の横に、赤いペンで手書きの記号がついている。
さらにその下。
別の名前。
私は思わず息を止めた。
「これは……」
見覚えのある姓だった。
ヴァレンタイン。
ただし、エイドリアンではない。
書かれていたのは、
ヴィクター・ヴァレンタイン。
エイドリアンの叔父。
昨日、彼が議決権を渡したくないと言っていた相手だった。
「ダニエル、この写真はいつ送られてきたの?」
「三日前だ」
「元画像は?」
「これだけだ」
「送信元は?」
「暗号化されたメッセージアプリ。登録名も偽名だと思う」
私は画像を自分の携帯電話で撮ろうとした。
ダニエルが手を引く。
「駄目だ」
「何をしてるの?」
「送った男から、複製するなと言われている」
「今さら何を守ってるの。あなた、私に見せたでしょう」
「見るだけって約束だった」
「私は約束してない」
一瞬、本気で携帯電話を奪いたくなった。
けれど、それでは話がこじれるだけだ。
私は深呼吸し、画面の内容を頭に叩き込んだ。
日付。
送金額。
承認番号。
ヴィクター・ヴァレンタイン。
フォレンジック・アカウンタントとして、数字を記憶する訓練はしている。
完全ではないが、短時間ならかなり保持できる。
「相手に会う場所は?」
「言わない」
「ダニエル」
「本当に駄目だ。君が来たら向こうが消えるかもしれない」
「では、会ったらすぐ連絡して。資料を受け取ったら、私にも見せる」
彼は答えなかった。
「父の資料よ」
「分かってる」
「分かってない。あなたのお父さんが保管していたとしても、これは私の父の人生に関わる資料なの」
「……受け取れたら連絡する」
「必ず」
「分かった」
私は立ち上がった。
ダニエルも慌てて立つ。
「もう行くのか?」
「仕事に戻る。それから、今日のことはこれで終わりじゃないから」
「何が?」
「四万八千ドル。父のために使ったからといって、勝手に使ったことが消えるわけじゃない。それと浮気も別。あなたが父の件を調べていたことには感謝する。でも、それで昨日のことまで帳消しにはしない」
ダニエルの顔が曇った。
「分かってる」
「本当に?」
「……分かろうとしてる」
以前の私なら、その答えに少し心が揺れたかもしれない。
今も何も感じないわけではない。
三年間好きだった人なのだ。
その気持ちが一晩で完全に消えるほど、私は器用ではない。
けれど、好きだったという事実と、戻れるかどうかは別だった。
私はバッグを持ち上げた。
「資料を受け取ったら連絡して」
「エレナ」
「何?」
ダニエルは何度か迷ったあと、言った。
「ヴァレンタインと結婚するつもりなのか?」
心臓がわずかに速くなった。
「どうしてそう思うの?」
「今朝、君が弁護士と一緒にタワーへ入った。普通の仕事なら、あんな早朝にCEO専用フロアへ行かないだろ」
意外に見ている。
「まだ決めていない」
「やめろ」
「あなたに決められることじゃない」
「俺が嫉妬して言ってると思ってる?」
「してないとは言わないでしょうね」
ダニエルは苦い顔をした。
「……してるよ。当然だろ。昨日まで俺と結婚するはずだった女が、翌日に別の男のところへ行ってるんだから」
「その原因を作ったのはあなたよ」
「分かってる。でも感情は、理解したから消えるわけじゃない」
その言葉だけは、不思議と腹が立たなかった。
むしろ人間らしいと思った。
彼は自分が悪いと分かっている。
それでも嫉妬する。
正しいかどうかと、感じるかどうかは別だ。
私だって同じなのかもしれない。
「それでも、私の人生は私が決める」
「エレナ、あの家は危険だ」
「何を根拠に?」
「父が怖がっていた。それだけじゃ足りないか?」
「十二年前の恐怖だけでは、今のエイドリアンまで同じだとは決められない」
「君、もうあいつを名前で呼んでるのか」
思わぬところに食いつかれた。
私は呆れて彼を見る。
「そこ?」
「悪いかよ」
「あなた、本当に今それを気にするの?」
「気になるものは仕方ないだろ」
思わず、ほんの少しだけ笑ってしまった。
最悪だった。
こんな状況で。
ダニエルもつられそうになり、しかし途中で表情を消した。
私たちの間に、かつての空気が一瞬だけ戻ったからだ。
それが逆に苦しかった。
私は今度こそ席を離れた。
出口へ向かう途中、マーガレットが新聞を畳んで立ち上がる。
店を出ると、彼女はすぐに言った。
「全部聞こえました」
「でしょうね」
「新聞を上下逆に持っていたの、気づきました?」
私は足を止めた。
「本当に?」
「途中で気づきました。でも直したら不自然かと思って」
こんなときなのに、思わず笑った。
マーガレットも少しだけ笑い、それからすぐ仕事の顔へ戻った。
「ヴィクター・ヴァレンタインの名前が資料にあったんですね」
「はい」
「写真だけでは何の証拠にもなりません。改ざんの可能性もあります」
「分かっています」
「それでも、無視はできない」
「ええ」
「そしてエイドリアンには?」
私は歩きながら考えた。
今朝、彼は言った。
何を探しているか分かった時点で話せ。
まだ分かったわけではない。
ただ父の事件に、彼の叔父の名前が現れた。
エイドリアンはその叔父と現在、会社の支配権を巡って争っている。
この情報を渡せば、彼にとって都合のいい材料になるかもしれない。
逆に、ヴィクターが無実なら、私が不用意な疑いを持ち込むことになる。
「今は言いません」
「私もそう思います」
マーガレットは頷いた。
「ただし、ダニエルが今日会う相手から資料を受け取れなかった場合は、次の手を考えましょう」
「分かりました」
仕事へ戻ってからも、私はほとんど集中できなかった。
数字を眺めているのに、頭に浮かぶのは別の数字ばかりだった。
十二年前。
四万八千ドル。
午後三時。
そして契約の返答期限、午後六時。
三時十二分。
ダニエルから連絡はない。
三時四十五分。
まだない。
四時二十分。
私はとうとう自分からメッセージを送った。
『資料は受け取れた?』
既読にならない。
嫌な予感がした。
ただ、根拠はない。
相手と話している途中かもしれないし、携帯電話を見られないだけかもしれない。
それでも落ち着かず、仕事用モニターの端に表示された時刻を何度も確認してしまう。
五時を過ぎた。
返事はない。
五時二十七分。
今度は電話をかけた。
呼び出し音は続いたが、出ない。
留守番電話に切り替わる。
胸の奥がざわついた。
そのとき、別の着信が入った。
表示された名前を見て、私は思わず姿勢を正した。
エイドリアン・ヴァレンタイン。
一瞬、出るか迷った。
けれど期限は六時だった。
私は通話ボタンを押す。
「もしもし」
『五時半だ』
挨拶もない。
「時計は見ています」
『返答がない』
「六時まででは?」
『だから確認している』
「あなた、本当に待つのが苦手ですね」
『必要のない待機が嫌いなだけだ』
いつもの調子だった。
それだけで、不思議と少し頭が冷えた。
「契約の修正版は確認しました」
『問題は?』
「マーガレットとも話しました。会計資料へのアクセス条件も、今朝の内容で入っています」
『それで?』
私は窓の外を見た。
夕方の光がビルの壁を赤く染めている。
昨日の今ごろ、私はまだダニエルと結婚するつもりだった。
それが今は、その男が父の事件につながる資料を受け取りに行ったまま連絡が取れない。
そして電話の向こうには、十二年前の事件に名前が出てきた一族の男がいる。
まともな人なら、ここで距離を取るだろう。
私はまともでいたいと思っている。
けれど、父の最後の言葉を知っている。
俺は盗んでいない。
その言葉を十二年間、私は忘れたことがない。
「エイドリアン」
『何だ』
「契約を受けます」
電話の向こうが一瞬静かになった。
まさか、この男が驚くとは思わなかった。
『本気か?』
「ここまで交渉して冗談を言うほど暇ではありません」
『それは私の台詞だ』
「では、お互い暇ではないということで」
声に少し笑いが混じった気がした。
『明朝八時に迎えを出す。九時までに書類へ署名し、婚姻手続きを行う』
「本当に明日結婚するんですね」
『今さら何を言っている』
「言葉にすると現実味が増すだけです」
『後悔したか?』
私は考えた。
後悔する可能性は十分ある。
むしろ、しないと思うほうが楽観的だ。
それでも。
「まだ始まってもいないことを後悔する趣味はありません」
『ならいい』
そこで通話を切ろうとしたとき、私はふと思った。
ヴィクター・ヴァレンタイン。
エイドリアンの叔父。
今朝までなら、その名前は単なる敵対する親族だった。
今は違う。
「一つ聞いても?」
『何だ』
「あなたの叔父さん、ヴィクターとは、どんな人ですか?」
沈黙。
わずかだった。
それでも、エイドリアンが質問を警戒したのが分かった。
『なぜ急に聞く』
「明日から家族になるなら、多少は知っておいたほうがいいでしょう」
完全な嘘ではない。
完全な真実でもない。
『表向きは穏やかだ。人当たりもいい。社内では私より好かれている』
「あなたより好かれるのは、それほど難しくなさそうですね」
『今、電話を切ってもいい』
「冗談です。それで?」
『優秀だ。政治もできる。ただし私は信用していない』
「どうして?」
『その話は、明日以降にする』
「あなたにも秘密があるんですね」
『最初からそう言っている』
それで通話は終わった。
私は携帯電話を机に置いた。
明日、私はエイドリアン・ヴァレンタインと結婚する。
恋愛感情はない。
信頼もまだない。
あるのは利害と契約と、十二年前の事件へ近づける可能性だけ。
それなのに胸の奥が落ち着かないのは、結婚そのもののせいなのか、それとも父の真相が近づいているからなのか、自分でも分からなかった。
五時五十八分。
再び携帯電話が震えた。
ダニエル。
ようやく来た。
私はすぐに開いた。
しかし、文章はたった一行だった。
『資料は受け取れなかった。相手が来なかった』
続けて、画像が送られてきた。
待ち合わせ場所らしい地下駐車場。
誰もいない。
そして柱の足元に、一枚の茶色い封筒が置かれている。
最後のメッセージ。
『代わりにこれだけ残されてた。中に、お前宛ての手紙が入ってる』
私は画面を見つめた。
数秒後、ダニエルからその手紙の写真が送られてきた。
震える指で拡大する。
短い文章だった。
けれど最初の一行を読んだだけで、身体が凍りついた。
『エレナ・ハートへ。あなたの父親は横領犯ではない。だが、事故で死んだわけでもない。』
十二年間、疑ったことのなかった父の死までが、音を立てて崩れ始めた。
第26話 亡き秘書室長が残した一枚の業務メモに、父の名前がありました 証拠は逃げない。 昨日、私はそう自分に言い聞かせて仕事へ戻った。 その判断は正しかったと思う。 ただし、正しい判断をした人間が翌朝六時前に目を覚まし、まだ開示すらされていない一枚の業務メモについて考え続けることまで禁止してくれるわけではなかった。『M.C.緊急権限付与/会長確認待ち/R.H.異議』 マーティン・コール。 会長確認待ち。 リチャード・ハートの異議。 たったそれだけの記述なのに、読み方はいくつもある。 会長の確認を待ってから送金する予定だったのか。 送金そのものは別の人物が口頭で許可し、アレクサンダーの最終確認だけが後に残っていたのか。 父は何に異議を唱えたのか。資金移動そのものか、マーティンへの緊急権限付与か、それとも処理手順か。 一つの短いメモに、都合のいい意味を詰め込むのは簡単だった。 だからこそ、実物を見るまで決めてはいけない。 分かっている。 分かっているのに眠れなかった。「起きていたのか」 朝食の席へ行くと、先にいたエイドリアンが私を見て言った。「普通に起きました」「六時前から部屋の明かりがついていた」 私は椅子を引く手を止めた。「どうして知ってるんです?」「廊下を通った」「何時に?」「六時十分くらい」「その時間に私の部屋の前を?」「書斎へ行く途中だ」「本当に?」「何を疑っている」「監視」「していない」 返事が早い。 私は座りながらコーヒーへ手を伸ばした。「ヘレンさんのメモ、気になってるだけです」「知っている」「まだ中身見てないのに」「昨日から同じ顔をしている」「また顔」
第25話 十年ぶりに母が息子の家で朝食を食べました ミランダ・ヴァレンタインが、十年ぶりに息子の家へ来ることになった。 正確には、今の屋敷は十年前と同じ家ではない。 エイドリアンがCEO就任後に使い始めた邸宅で、ミランダ自身が暮らしたこともない。 それでも、彼女が朝食を一緒に食べたいと伝えてきたと聞いた瞬間、私は「家に帰ってくる」という言葉を連想した。 その言葉を口にしなかったのは、たぶん正解だったと思う。「七時半?」 前夜、書斎でマーカスから予定を聞いた私は思わず聞き返した。「はい。ミランダ様からのご希望です」「朝食だけ?」「現時点では」「現時点では、って何です」「話が長くなる可能性もございますので」 私は向かいに座っていたエイドリアンを見る。 彼は無表情だった。 無表情すぎて、逆に分かりやすい。「緊張してます?」「していない」「今の返事、速すぎました」「事実だ」「十年ぶりにお母様が来るのに?」「この前会った」「二人で、外ででしょう」「そうだ」「家に来るのは別じゃないですか」「何が違う」「全部」 私は即答した。「外の面談場所なら帰る時間を決められるし、話が重くなったら終わらせられる。でも家は生活の場所でしょう。朝食を食べるって、かなり私的です」「お前、妙に詳しいな」「一般論です」「経験は?」「家族と朝食くらい食べます」「母と十年ぶりに、という意味だ」「ありません」「なら一般論ではないな」「揚げ足取らないでください」 マーカスが話へ入るべきか迷っている顔をしている。 私は少し姿勢を戻した。「で、私も同席するんですよね」「母がそう言っ
第24話 父に三万八千ドルを送った会社は、消えた資金の通り道でした ブライトン・アドバイザリー。 その社名を、私は翌朝から何度も見ていた。 父の共同名義口座へ三万八千ドルを送った会社。 十二年前、父のユーザーIDで承認された四十二万ドルが、ホーソン・ビジネス・ソリューションズを経由して流れ込んだ会社。 そして、その四十二万ドルの取引は、父の支払承認権限が停止された三日後に、父のIDを使って処理されていた。 数字だけ並べれば、父を陥れるために誰かが不正資金の一部を父の口座へ送り込んだようにも見える。 一方で、父が以前からブライトンと関係を持ち、その会社を通して金を受け取っていたようにも見える。 都合のいい解釈なら、いくらでも作れた。 だから私は、どちらも採用しなかった。「また同じページ見てる」 向かいの席からノアが言った。「三回目?」「五回目」「数えてたの?」「午前九時から同じPDF開いたままだから」 私はモニターから顔を上げる。「仕事してください」「してるよ。君の監視も仕事の一部になりつつあるだけ」「誰から依頼されたんですか」「周囲全員?」「最悪」 今日は自分の事務所だった。 昨日の出張から戻ったあと、エイドリアンが何度も「今日は早く帰れ」と言うので、朝から会社へ来た私に対して、ノアまで似たような扱いをしている。 しかも私自身、以前ほど反発しなくなっている。 それが一番悔しい。「ブライトンの法人情報、出ました?」「今まとめてる」 ノアが画面を切り替える。「設立は十五年前。名目上は保険精算、事業継続支援、企業向け事務代行。社員数はピーク時でも二十人前後」「小さい」「その割に、十二年前の入出金だけ妙に大きい」「どのくらい」「今確認できた範囲で、九
第23話 父のIDで承認された取引は、父が会社にいない時間に処理されていました 翌朝、目が覚めて最初に考えたのは、父の十九件でもマーティン・コールでもなかった。 隣の寝室にエイドリアンがいる。 その事実だった。 目を開けたまま天井を見つめ、私は自分にがっかりした。 昨夜までは雨音のせいにできた。慣れないホテル、同じスイート、三百六十五日後の離婚という話までしたのだから、多少感傷的になるのも仕方がない。 けれど朝になって最初に確認したいことが「夫がまだ隣にいるか」なのは、少し事情が違う。 私は枕元のスマートフォンを見る。 午前六時十二分。 メッセージは来ていない。「……普通です」 誰に聞かせるでもなく言った。 同じ場所へ出張している人間が、朝も同じ場所にいる。 当たり前だ。 安心する必要はない。 私はベッドを出て、シャワーを浴び、仕事用のブラウスとパンツへ着替えた。 鏡の前で髪を整える頃には、かなりいつもの自分へ戻っていた。 少なくとも見た目は。 ◇ リビングへ出ると、エイドリアンはすでに起きていた。 窓際のテーブルでノートパソコンを開き、コーヒーを飲んでいる。「おはようございます」 彼が顔を上げる。「おはよう」 それだけだった。 それだけなのに、少し安心した。 非常に良くない。「早いですね」「いつもこの時間だ」「昨日遅かったのに?」「六時間は寝た」「短いです」「十分だ」「年を取ってから後悔しますよ」「まだ三十四だ」「もうすぐ三十五でしょう」「結婚期限を思い出させるな」「あ」 そうだった。 この結婚そのものが、三十
第22話 一泊だけの出張なのに、夫と同じ部屋しか残っていませんでした 父を横領犯にした十九件を、私はその日のうちに見なかった。 正確には、見せてもらえなかったわけではない。正式な再調査の中で、外部チームが送金元、承認端末、本人認証、取引先との関係を整理したうえで確認することになり、私もそれに従った。 以前の私なら、夜中まで資料室に残る方法を考えたかもしれない。 今は、一度屋敷へ帰って眠った。 翌朝も普通に起きた。 そして午前六時半、私はエイドリアンと一緒に空港へ向かっていた。「どうして、このタイミングで出張なんでしょうね」 車の窓からまだ薄暗い街を眺めながら言うと、隣のエイドリアンはタブレットから目を上げなかった。「三週間前から決まっていた」「その三週間で人生が変わりすぎたんです」「私もだ」「あなたの場合、自分で変えた部分がかなりありますけど」「結婚のことか」「ほかに何があるんです」「会社の内部調査も拡大した」「それは私だけの責任じゃありません」「責めていない」 言いながら、彼はタブレットを閉じた。 今日の出張先は、ヴァレンタイン財団が支援する地方医療施設と、グループが投資している再生エネルギー関連企業だった。 本来ならエイドリアン一人で出席する予定だったが、結婚発表直後という事情から「夫妻での公式訪問」へ変更された。 私にとっては月六回までと定めた共同公務の一回に当たる。「財団施設での挨拶は何分くらい?」「一時間半」「投資先は?」「二時間」「夕方の記者対応」「三十分」「それで終わり?」「ああ」「なら今日中に帰れません?」「最終便に間に合わない」「チャーター機」「使える」「では使いましょう」「使わない」
第21話 父を横領犯にした調査報告書に、同じ時刻の矛盾がありました 三か月前、ヴィクター・ヴァレンタインは父が残した例外承認書の画像を見ていた。 その事実が分かった朝、私はコーヒーを半分残したまま、ダイニングの時計を見た。「十五分経ちました」 向かいに座るエイドリアンが言う。「まだ電話しないのか」「あなたが三十分は長いと言ったので、十五分にしたんでしょう」「十五分経った」「質問の順番を確認しています」「叔父に聞くだけだ」「あなたに任せると最初の質問が『なぜ黙っていた』になるからです」「問題があるか?」「あります」「なぜ」「怒っている人が最初に『なぜ』と聞くと、大抵その後の答えを聞かなくなるから」 エイドリアンが不満そうに眉を寄せた。「お前は聞くのか」「私は怒りながら聞く訓練を仕事でしています」「自慢になるのか、それは」「職業技能です」 マーカスが少し離れた位置で、何も聞いていない顔をしている。 私は紙へ書いた五つの質問を見直した。 一、三か月前にVeritas Vaultへアクセスした事実を認めるか。 二、なぜアクセスしたか。 三、サミュエルと同時期にアクセスした理由。 四、何を確認したか。 五、なぜ昨夜その事実を話さなかったか。「これで」「ようやくか」「あなたは最初の五分、黙っていてください」「なぜ私が」「約束してください」「嫌だ」「信用点を下げます」「それを交渉材料にするな」「効いてるじゃないですか」 エイドリアンが黙った。 勝ったと思う。 たぶん。 ◇ ヴィクターは電話にすぐ出た。『朝から二人揃ってとは